御機の五 和歌の枕詞のアヤ②

                  つくしにみゆき
たちはなお うゑてとこよの
みちなれは もろかみうけて
たみおたす たまのをととむ
みやのなも をとたちはなの
あわきみや みこあれませは
もちきねと なつけていたる
そあさくに さくなぎのこの
いよつひこ うたにことばお
ならわせて ふたなおもとむ
あわつひこ そさにきたりて
みやつくり しつかにゐます
きしゐくに たちはなうゑて
とこよさと さきにすてたる
ひるこひめ ふたたびめさる
はなのもと うたおをしゑて
こおうめば なもはなきねの
ひとなりは いざちおたけび
しきまきや よのくまなせは
ははのみに すてどころなき
よのくまお わがみにうけて
もろたみの かけおつくなふ
みくまのの みやまぎやくお
のそかんと うむほのかみの
かぐつちに やかれてまさに
おわるまに うむつちのかみ
はにやすと みづみつはめそ
かくつちと はにやすがうむ
わかむすひ くひはこくわに
ほそはぞろ これうけみたま
いさなみは ありまにおさむ
はなとほの ときにまつりて
ここりひめ やからにつくる

両神はその後ツクシ州(九州地方)に行幸され、アワ歌の普及とともに各地の橘の植栽を振興されました。これはクニトコタチが建国事業の中心に橘の植栽を据えた「常世の道」政策に倣ったもので、これによりツクシ州は豊かになりました。
この後両神は「オトタチハナのアワキ宮」(宮崎市内)を本拠地としました。そこで生まれたの御子をモチキネと名付け、トヨケ大神の下に遊学させました。後のツキヨミです。

ツクシの経営が起動にのると両神はソアサ州(四国地方)に回られました。イサナギの父アワナギの出身地であるソアサは当時、叔父であるサクナギの長子イヨツヒコが経営にあたり、弟のアワツヒコが補佐していました。
ウビチニの血を引く一族の祖神アメヨロズが開拓にあたって以来政策も順調に推移していたので、両神は人々にアワの歌を習わせる言語教育の方法をアワツヒコに授けるだけで充分でした。
またアワツヒコの要望を聞き、ソアサの統治をさらに細かく行うべくイヨ邦とアワ邦の二つに分け、アワ邦をアワツヒコに治めさせました。

次に両神は紀伊水道を渡りソサ州(紀伊半島)に行き、キシヰ邦(和歌山県)に宮を造り、経営にあたられました。
ここでも橘の栽培を主要産業としてキシヰ邦は「トコヨサト」(常世里)と呼ばれるまで経済的発展を遂げます。

この頃、両神もようやく心にゆとりが生じたと見え、ツクバで生まれた第一子ワカ姫を呼び戻し、三人で熊野地方の経営に着手されました。カナサキの手解きで歌の資質が開花したワカ姫は両神を助け人々にアワ歌を教える役目をこなしました。

そしてイサナミはクマノで三人目の男子を産みハナキネと名付けました。
ところがこの子は癇癪持ちで我が強く、気に入らない事があると泣き喚いて怒鳴ったりで手がつけられない子でした。

ある時、早苗が出揃った苗代にもう一度種を蒔いて稲の成長を阻害するという重大な悪さをしたのです。親を困らせるばかりか人々が精魂込めて耕作した田に植えるべき苗が台無しになるほどの被害でした。
イサナミはハナキネの所業を自分の責任だと深く心に刻み、稲作の減収を償う決心をされました。

熊野地方は海岸近くまで丘陵地が迫り、水田耕作が可能な場所はごく限られていて人々の生活は決して楽ではありませんでした。イサナミは庶民の困窮を立て直すため、山焼きをし傾斜地に桑を植えて養蚕を興し、平地は水利を整え水田や農地を増やす事業を進めました。

ところが、急に風向きが変わり山焼きの火に囲まれたイサナミは逃げ場を失ってお亡くなりになりました。

志し半ばで事故に遭われたイサナミでしたが、事業は起動にのり絹や農産物の産業が熊野地方にしっかり根付きました。イサナミは身を挺して火の神カグツチを動かして、土の神ハニヤスと水の神ミズハノメを生み出し農産業の守護神ワカムスビをこの地に招いたと言えましょう。

イサナミの亡骸はアリマ(三重県熊野市有馬町花の窟神社)にお納めし、この地の人々は毎年桑の花が咲く春と、稲穂が色付く秋にイサナミを偲んでお祭りをしています。
この葬儀を取り仕切ったイサナギの姉シラヤマ姫は、全てが済んでから遠方の親族にお知らせしました。

ツキヨミの誕生、ワカ姫の復権、ソサノヲの悪さからイサナミの死まで重大な事柄が多い部分です。古事記では火の神カグツチを産んだ際に焼かれて亡くなったイサナミですが、これを読むとなるほど、と現実的な話で納得がいきます。

この後は有名な黄泉比良坂の話に移りますが、ホツマツタヱではどういった表現なのか気になります。

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