御機の二 天七代床神酒のアヤ④

                  あめのかみよの
ななよめお つぐいとくちは
とこよかみ きのみひかしに
うゑてうむ はこくにのかみ
ひたかみの たかまにまつる
みなかぬし たちはなうゑて
うむみこの たかみむすびお
もろたたゆ きのとこたちや
そのみこは あめかかみかみ
つくしたす うびちにもうく
このみこは あめよろつかみ
そあさたし あわさくうめば
あわなぎは ねのしらやまと
ちたるまで のりもとほれば
うむみこの いみなたかひと
かみろぎや たかみむすひの
ゐつよかみ いみなたまきね
とようけの ひめのいさこと
うきはしお はやたまのをが
わたしても とけぬおもむき
とこむすふ ことさかのをぞ
けたつぼの つさのつくばの
いさみやに うなつきあみて
いさなぎと いさなみとなる
ふたかみの ましわるときに
とこみきや とこはとほこに
こおもとむ

イサナギ・イサナミの両神が七代目に選ばれた理由は、初代天神クニトコタチまで遡ります。
クニトコタチが東北地方で果樹植栽の事業に取り組んでいた時に「ヒ」のクニサツチである「ハゴクニ(葉木国野尊)の神が生まれました。
この神はクニサツチの内タ・カ・ミの三人を率いて東北地方の開拓と経営で功績を上げました。
タカマ(高天原宮 朝廷)にクニトコタチを「アメノミナカヌシ(天御中主神)」と共に祀る祭祀を創始し、タチハナ(橘)を「常世の木」と崇め、クニトコタチのシンボルとして栽培したのはこの神です。
クニトコタチは日高見を手始めに、拠点を移しながら開拓地域を南西に伸ばしていき、列島を八つのブロックに分け、八人の皇子に分治させたので「オオヤシマ(大八州)」と呼ばれる様になりました。
ハゴクニはその中でヒタカミの統治を任され、社会基盤を安定させ、「タカミムスビ(高皇産霊尊)」と人々から称えられました。別名を「東のトコタチ」と言われるほど優れていたので、「タカミムスビ」は代々世襲される様になり、天神の後見役を担う様になりました。

この初代タカミムスビの御子の一人アメカガミ(天鏡尊)はツクシ(筑紫/九州地方)に派遣され開拓、統治で成果を上げました。嫡子が無かったため、ウビチニは自らの皇子の一人を婿養子にしてアメカガミの後を継がせました。これがアメヨロヅ(天万尊)で、ソアサ(四国地方)に渡り開拓と統治を行いました。アメヨロズにはアワナギとサクナギの二人の御子がいましたが、サクナギをソアサに残し、アワナギをネ州(日本海側)に派遣しました。アワナギはネ州を整えて、シラヤマト(白山麓)からチタル(出雲地方)まで治めるまでになりました。
このアワナギから生まれた御子が斎名(イミナ)タカヒト、幼名カミロギ、後のイサナギです。
タカヒトは第五代タカミムスビ (斎名:タマキネ、称え名:トヨウケ)の姫イサコと結婚することになります。
先ず、ハヤタマノヲが二人の縁結びを試みたが上手くいかず、代わってコトサカノヲ(事解之男神)が解き結びました。両神は国を整える決意の証として、ケタツボ(宮城県多賀城市付近)の西南に位置するツクバ(筑波)のイサ宮(茨城県真壁町付近)を新居と決めました。両神はモモヒナギ・モモヒナミの古事に従って床神酒の儀式を行いました。先代オモタル・カシコネの轍を踏まぬ様に皇子を妊ける事が重要な責務でした。


七代目天神イサナギ・イサナミの出自が詳細に書いてありました。
古事記にある「国生み」から島を産み出した様にイメージしてましたが、再建した事を指すとは、なるほど納得しました。

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