まさかきの うゑつぎゐをに
みつるころ よつぎのをかみ
うびちにの すびちおいるる
さひあひの そのもとおりは
こしくにの ひなるのたけの
かんみやに きのみおもちて
あれませば にわにうゑおく
みとせのち やよひのみかに
はなもみも ももなるゆえに
もものはな ふたかみのなも
ももひなぎ ももひなみなり
ひなはまた ひとなるまえよ
きみはその きのみによりて
をかみはき めかみはみとぞ
なつきます ひとなるのちに
やよひみか みきつくりそめ
たてまつる ももとにめくる
みきにつき うつりすすむる
めかみまづ のみてすすむる
のちをかみ のみてましわる
とこのみき みあつければや
あすみあさ さむかわあびる
そでひちて うすのにこころ
またきとて なもうびちにと
すびちかみ これもうびにる
ふることや おおきすくなき
うすのなも このひなかたの
をはかむり うおそではかま
めはこそで うはかつきなり
このときに みなつまいれて
やそつつき もろたみもみな
つまさたむ あめなるみちの
そなわりて
マサカキの木の植え継ぎが五百回に達する頃、四代目天神の位を継いだウビチニは、后のスビチニを宮に入れて、共に政を執る様になりました。
初めて夫婦で天神の座についた事になります。
その理由とは、二人が越邦のヒナルノ岳(福井県武生市日野山麓)の神宮で一緒に育てられ、将来を誓い合って庭に木を植えました。三年後の三月三日に多くの花が咲き、多くの実を結びました。花も実も百(もも)を数えたその花木は、桃の花と名付けられました。
この事から、二人はモモヒナギ、モモヒナミと呼ばれる様になりました。
ヒナとはまだ成人前で鳥の雛の様に愛らしい意味。男神を木(キ・ギ)、女神を実(ミ)に例えその様になりました。
二人が成人すると結婚するのですが、それは三月三日の夜で神酒(ミキ)を神前に備えて、桃の木の下で神酒を酌み交わす儀式でした。それは器に注いだ神酒に三日月が写り、優雅で幻想的な光景だったでしょう。
儀式は先ず、女神が神酒を飲んで男神に勧め、後に男神が神酒を飲む形式がこの時出来上がりました。
この儀式は「とこ」しえの愛をもって添い遂げる事を誓うとともに良き子を授かる願いを込めて「床」入りする事から『トコの神酒』と呼ぶ様になりました。
三日目の朝、二人は寒川で身を清めました。二人とも袖がヒヂ(濡れ)て笑い合い心を通わせ似合いの夫婦になりました。
そこで二人はウビチニ(泥土煮尊)、スビチニ(沙土煮尊)という相性を付けました。
この雛形から、多い少ない・大きい小さい という意味の『ウス』という言葉が生まれました。その時の衣装が男雛は冠を被り、大袖と袴を着ており、女雛は小袖と上被衣を着ていたからです。
この頃から一般庶民も、二人の様に妻を同居させる様になりました。
二人が示した理想的な男女関係が後に『イモウセノミチ(妹背の道)』となりこれが詰まって『イセノミチ(伊勢の道)』と呼ばれ、縄文時代の国家原理である『アメナルミチ(天なる道)』の中心的思想として根付いていったのです。
4代目天神のウビチニとスビチニの話は結婚式やひな祭りの元になる話でした。
冒頭のマサカキの木とは暦の木として使われ、この木の植え継ぎ数で年代を算出できるようです。また別名スズノ木とも言われ、このマサカキを守っていた人々が現代の「鈴木」の姓を名乗っているとの事です。鈴木さんは暦を司る人々だったのですね。
初めての夫婦神となった二人、古事記でも代数はややずれますが最初の夫婦神として名前が出てきます。
余談ですが、スビチニの「沙」の字とモモヒナギの「ナギ」の音が自分的には気に入っていて、長女と長男の名前に使わせてもらってます。
また盃の語源
器に入れた神酒に写った月=逆さに写った月=逆さ月=盃
伊勢の語源
妹背=伊勢
と雑学的な要素が多いパートでした。
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