御機の六 日の神十二妃のアヤ④

      ひのはやひこに
みことのり なんぢくにゑお
うつすべし やまとめくりて
みなゑがく きみはやみこお
うつさんと おもいかねして
つくらしむ なりていわさに
みやうつし ここにいませは
むかつひめ ふぢおかあなの
おしほゐに うぶやのみみに
あれませる をしほみのみこ
おしひとと いなみおふれて
あみありの もちゐたまゑは
たみうたふ さきにもちこが
うむみこは ほひのみことの
たなひとぞ はやこがみつご
ひはたけこ おきつしまひめ
ふはたきこ ゑつのしまひめ
みはたなご いちきしまひめ
しかるのち みちこがうめる
ばらぎねは いきつひこねぞ
とよひめは ねのうちめにて
ぬかたたの くまのくすひぞ
みこすべて ゐをとみめなり
さのとのに たちばなうゑて
かぐのみや きにさくらうゑ
うおちみや みつからまつり
きこしめす あまねくたみも
ゆたかなり

国政の難題を処理されて安国宮に落ち着かれたワカヒトは、新たな気持ちで国政に取り組む決意を固められ、ヒノハヤヒコ(後のタケミカツチ)に各地の地図を作成するように命じられました。ヒノハヤヒコはヤマト(当時はホツマ州、コヱ州、ナカ州の範囲を含む地方名称がヤマトと推定される)の各地を巡り歩いて詳細な地図を作成、提出しました。

ワカヒトは遷都を考えておられたのです。この地図によって場所を決められ遷都の勅を出され、その造営責任者にはオモイカネが任命されました。
新たな都とされたのは後にイセ(伊勢)と呼ばれる地で、新築落成した「イサワの宮」にお遷りました。

さて、セオリツ姫はこの時期になってやっと身篭られました。ワカヒトの意向により、イサワの宮にほど近い人里離れたフジオカアナのオシホヰ(伊勢外宮境内/聖水の湧く井戸がある)に設えた産屋に籠り、ひっそりとお生まれになったのがオシホミミの皇子、斎名オシヒトです。嫡子の資格を持つこの皇子の誕生は世間に布れられ、神在りの餅飯が振る舞われると、国民は高らかに祝いの歌を歌って祝賀の行事は盛大に行われました。

オシヒトの誕生より先に、北のスケのモチコからアメノホヒ・斎名タナヒト(オシヒト誕生後に改名してタナキネ)が生まれています。次に北のウチキサキのハヤコから女の三つ子が生まれました。長女はオキツシマ姫タケコ、次女エツノシマ姫タキコ、三女イチキシマ姫タナコです。この三人の姫は後世に琵琶湖竹生島、相模江ノ島及び安芸厳島の御祭神としてそれぞれ奉祭され、神仏習合後は三大弁財天の名で祟められています。
オシヒトより後に生まれた御子は、西のスケのアキコが生んだアマツヒコネ(斎名タダキネ)、次に東のスケのミチコが生んだイキツヒコネ(斎名バラキネ)、そして西のオシモから北のウチメに昇格したトヨ姫アヤコが生んだクマノクスヒ(斎名ヌカタダ)で、ワカヒトの御子は五男三女の八人です。

イサワの宮でのワカヒトは、正面に橘(カグの木)を植えた南殿を「カグの宮」と呼び、アメノミヲヤカミを祀る高間殿で神議りが行われました。東側に桜の木を植えたウオチミヤ(大内宮)は御寝所とされました。
参議の重臣達が行う議事も、ワカヒト自らが下される決裁も、アメノミヲヤカミの前で恥じることのない、公明正大な国政となるよう意図されたのです。こうした国家運営は日本中を安定させ、人民に平等で豊かな暮らしをもたらしました。

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