みちひきのうた
あわぎみよ わかれおしくと
つまおくる をうとはゆかず
ゆけははぢ しこめにおわす
よしあしお しれはあしひく
よもつさか ことたちさくる
うつわあり みそぎにたみの
ととのいて いやまにほとる
あしびきの ちゐをのおたの
みつほなる まとのをしゑに
かかんして のんあわくには
でんやまと ひきてあかるき
あそはらの うたもされよと
まとみちの とほらぬまえの
あしひきの まくらことばは
うたのたね あしひきはやま
ほのほのは あけぬばたまは
よるのたね しまつとりのう
おきつとり かもとふねなり
このあちお ぬばたまのよの
うたまくら さめてあかるき
まえことば こころおあかす
うたのみち みそきのみちは
みおあかす やまとのみちの
おおいなるかな
(解釈文)
アワウタで世を造りかため、人々からアワギミと呼ばれた私達夫婦だが、妻の急逝が余りに突然だったため、惜別を抑えられずあの世まで追いかけ会いに行った。
しかし、たとえ夫でも行ってはならない世界で亡き妻に恥をかかせてしまった。醜女に追わせる程怒った妻の心情を知って、足取りも重く、あの世から帰って来た。この世とあの世の境である黄泉比良坂には、厳然と両世界を隔てる越えてはならない境がある。
黄泉の国から生還した私は禊によって穢を払い去り、天神としての勤めを全うし平和な治世を取り戻す事ができた。
クニトコタチから伝えられた神宝「トと矛」を授かり天神になった私は神宝の価値を深く知らず、一心不乱に治世を行なってきたが、禊によって初めて「大いなる真実であるトの教ゑ」(イヤマト、ヤマト、マト)の奥義に達する事ができた。
イヤマトを悟った私は精神を高揚させ、前向きに生きることができるようになった。妻への未練である「足引き」は、国の豊穣願う「葦引き」に換わり、葦を引き抜き稲を植える事業に情熱を傾ける事で多くの湿地が新田に変わり、稲穂がたわわに稔った。
「マトの教ゑ」を実践(カカン)した私にアメノミヲヤカミは恩頼を降ろし賜り(ノン)、そのご威光を人々に分け与える事でアワ州は理想郷となり、やがて日本全土へと広がりを持つ(デン)事になったのだ。クニトコタチ以来、国政の柱されてきた「トの教ゑ」の奥義は普遍の原理なのだ。
「トの教ゑ」の奥義は「ヤマ」のヲシテ二文字に集約される。「ヤ」は天を表す丸と地上に立てられたアンテナを表し、神に御霊を下ろし賜ることを祈る行為を意味する。また、「マ」は祈りを聞き届けて御霊を降ろし賜わる神の御意志を意味する。
精神的に未熟だった私に、この奥義に達するイヤマトの悟りを開かせてくれた「足引き」の体験が、いかに貴重な神の御采配であったかを、歌の様式として、後の世に伝えたい。
つまり、ヤマを歌に詠みこむ時に、自動的に「足引き」という私の体験が連想されるように様式化するのだ。「足引き」を歌枕とか枕詞と呼んで、ヤマを詠う場合の歌の種とすれば、イヤマトの悟りを開いた私の貴重な体験を、後の世に伝えることができるのだ。
我が日嗣の皇子であるワカヒトが生まれた時の記録の歌に先々代オオヤマスミは、「久方の 光生れます ウヒナミヱ……」と詠い込んだ。この歌から久方」は光を導く歌の種となり、人々は自動的に日の神ワカヒトの誕生という歴史事実を連想するようになった経緯がある。このような歌の種を枕詞と呼んで和歌の形式に取り入れる事にしよう。
すでに「ほのぼの」は「明け」、「ぬばたま」は「夜」、「島つ鳥」は「鵜」、「沖つ島」は「鴨または船」のそれぞれ歌の種とされているが、今後はこれらを枕詞と呼ぶ事にする。
次の一節で、枕詞の使い方とその文学的効果を味わってみて欲しい。
この妙味オ ヌバタマの夜の 歌枕
覚めて明るき 前詞
歌の道は人の心の内を明らかにし、禊の道は身の内を清浄にする。この二つの道があいまってイヤマトの道となるのだ。国中の人々がこの道を志し、身も心も明るく晴れやかになる時、日本は真にヤマトの国と称えられる素晴らしい国家となるのだ。
枕詞はただの飾りだと思っていましたが、ひとつひとつ深い意味があることがわかりました。黄泉比良坂の話がここに繋がっているとは驚きです。
それにしても、忙しい、、、
なかなか更新できてないですが長い目で見てください。
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